2009年10月18日日曜日

大人のマナーなど

朝食を取った後、散歩をかねて麻賀多神社にお参りにいった。
鳥居で一礼したあと手水に向かうと、このような呼びかけがあった。


神域は神聖な場所であるとかいう以前に、その場所にはその場所にふさわしい態度、身なりをするという基本的なところが、今の「大人」と言われている連中にはできていない。自分の狭い範囲のことだけしか見ず、まわりの状況はどうか、いまの自分の行動はそれにマッチしているかということを考えない連中が増えすぎた。
それも一般の、普通の家庭を持っているように見えるじいさん、ばあさん、おっさん、おばはん連中がダメというところが深刻だと思う。

だから、子供を注意し導く以前に、「大人」自身がマナー違反に気づいてすらいないのかもしれない。

個人的に近い例をあげると、JR佐倉駅北口近くの学習塾帰りの子供を待つ迷惑な路駐。
塾が終わるころになると家族が車で向かえに来るが、終わる時間前からずっと待っているのだろう、長いこと駐車している。2車線の道の両車線で何台も路駐をするので、車が通れる箇所が1車線分しかなくなっている。歩行者が歩くスペースもないので車線の真ん中を歩かされるハメになる。
普段交通量が少ない場所とはいえ、交差点のそばであり、夕方時は多くの車と人が通る。みんな迷惑な表情をしているのに、親連中はそしらぬ顔でケータイに没頭しながら、ずうずうしく路駐を続けている。


以前、同じ電車に乗り合わせた家族なぞはガキを放し飼い状態にしていた。
まわりの乗客は迷惑顔だったが、
「あ~、○○ちゃんは元気だね~」
なぞとほざき、注意したり叱ったりということは一切なし。調子にのったガキは車両の端から端まで何度も走り回る。あぶねーなぁと思っていたら私の足を踏んづけやがったので、踏まれた足で反射的に尻を蹴りかえしてやった。
さすがにびっくりしたのかそれ以後静かにしていたが、それよりも親連中から
「すみません」
の一言もなかったことに、こちらがビックリした。降りるときに「何か一言くらいあるかな」と思いつつ、じじいとおっさんを睨みつけてみたが、それでも何もなし。
こいつら、一体なんなんだろ。
こういう連中が、子供がなんかしでかしたときに
「○○ちゃん悪くない! お前が悪い、学校が悪い、社会が悪い!」
とか吠えだすんかなぁ。

ついでながら、「お子様」という言葉も止めたほうがいい。
いくら可愛かろうが、未来の宝だろうが、自立した人格形成ができるまでは「子供」、せいぜい「子供さん」でよい。素行が悪ければ「ガキ」「ジャリ」で十分。
人間は、実際に社会に出て、人のために、世の中に役立つ人間になって初めて一人前だと思う。逆に中卒、高卒で未成年でも、社会に出て働いて自分で自分の暮らしを立てて、それなりの考えを持っている人なら、大人として扱わなければならない。二十を越えても、親のすねかじりで学生しているだけだったら「子供」扱いでよいと考えている。


ただ彼らの可能性については、軽んじるべきではない。法華経に出てくる「常不軽菩薩」 がすべての人に仏になれる可能性があるからと拝んでいたように、子供には大人にはない「可能性」がある。

ただし、それを引き出せる土台と身につかせるのは、大人の役割だ。それは決して、彼らを甘やかせたり、好き勝手な行動をさせたりすることではない。大人がその役割を果たさないと、それはいつか(数年程度)で社会風潮や事件・事故として直接的・間接的に大人にかえってくる。そうなってから監視カメラとつけたり、少年法を厳しくしたりしても遅い。

ただ、電車通勤とかで観てると、もっとも深刻なのはおっさんかも。
自分勝手なことをやっているのは圧倒的におっさんが多い。中高生集団のアホっぷりも大概にせーよと思うが、地味に小ずるくセセコマシイ、より腹立たしいことを分かっていて平気でやるのは、おっさんである。
自分も、年代的には「おっさん」領域にいるので気をつけないとなぁ。

 お参りがすんで帰ろうとしていたら、御神酒所の撤収作業をしていた。


しまうときは、トラックを使うんですね。

でも、いいなぁ。こういう文化に参加できて。

地元を離れた独身者だと、こういうのに参加したくてもできないんだよな。
つくづく根無し草だなぁと思う。

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